岩手県北上地方の大乗神楽

 

大乗神楽とは

大乗神楽は、山伏神楽に分類されますが岩手県内の山伏神楽とは、舞の趣が異なります。本田安次氏は、宮城県陸前浜などの法印神楽の異伝と位置付けています。雄勝地方の神楽では、一時期「大乗神楽」と呼称していたこともありますが関連性は解き明かされていません。宮城県の法印神楽でも「大乗飾り」と称する荘厳な天蓋を設えて舞います。

現在の和賀地方の大乗神楽は、天文3年(1534) に開基された南笹間の旧萬法院(現:花巻市笹間八幡宮・旧和賀郡)に由来されると言います。江戸末期、旧萬法院第17代永岩法印が、衰退した神楽復活のために宮城県涌谷の箆峰寺で法印神楽を習得したと伝えられています。そして嘉永2年(1849)萬法院で荘厳な大乗飾りの下、近隣の修験者と力を合わせ、「大乗会」を執り行い、舞三十三幕を奉納し再興したと伝えられています。

その神楽が、嘉永5年に村崎野の旧妙法院(現:天照御祖神社 /北上市)に伝わり、慶応3年には 和賀煤孫の旧貴徳院(現:古館神社/北上市和賀町)に伝えられ長らく途絶えていた神楽を再興し煤孫大乗神楽と名乗るようになりました。その他に嘉永年間に飯豊村の宇南神社(北上市飯豊)に伝わり、更に江釣子の旧自性院(現:江釣子神社/北上市)では、明治8年と33年に大乗会が行われたと記録されています。

明治33年の大乗会の記録によると通常の神楽舞を「平神楽」と呼び、一世一代別当職を引き継ぐときや、ご本尊ご開帳の折の神楽舞を「大乗会」と称し、特別に厳しい仕来りや決まりがありました。また大乗会でしか舞わない「鬼門」「天王」などの舞もあり、21日間精進潔斎をした榊舞の伝授者(法印)達が執り行ったと言われます。

一方、北上市岩崎の伍大院(二前神社)の預かり文書に「天和元年」「文化」「寛政」年間と記載される神楽関係文書が有ります。その文中には、「舞台切カザリ作法」や「鬼門」その他の演目名が列挙されています。また神楽を演じた山伏達の割り当ても記載され和賀川流域の山伏達が深く関わっていたことが明示されています。

萬法院で大乗会が執り行われた4年後嘉永6年に「一明院」年行事職罷免願いの本山直訴が起こっています。注進状には、萬法院を始め和賀・稗貫33ヶ院が名を連ね大きな騒動になりました。この結果、総録自光坊の裁定で年行事を始め関わった修験達に処分が下されています。

神楽が再興された背景には、里修験の置かれた幕末期の状況を伺い知ることが出来ます。

嘉永年間に再興した大乗神楽は、明治時代、神仏分離令によって修験者から離れ庶民が引き継ぎ紆余曲折を経ながらも旧和賀郡内で連綿と伝承されてきました。

現在、大乗系の神楽は、花巻市・北上市の旧和賀郡内に20数団体があり、笹間大乗神楽・和賀大乗神楽・村崎野大乗神楽・宿大乗神楽・上宿和賀神楽の5団体は岩手県指定無形民俗文化財として神楽舞を伝承し活躍しています。その他の神楽団体も地域の春祈祷や祭礼で権現舞を奉じ大きな役割を果たして活躍しています。

大乗神楽は、手次や踏み足、九字など大変祈祷色が濃い所作や荘厳な大乗飾りを持つなど特徴があり岩手県の山伏神楽の一潮流として文化財的価値を評されています。

 

出演団体紹介

 

岩手県指定無形民俗文化財「和賀大乗神楽」

所在地:北上市和賀町煤孫

代表者:鈴木俊逸

沿革

口伝では、600年程前、和賀町煤孫の龍頭山馬峰寺の開基「貴徳院円光法師」が創始したとされ貴徳院法印神楽と呼ばれていたようです。江戸時代久しく中断していた神楽を幕末の慶應年間に佐藤寅次郎が、妻の父親・南笹間万法院永岩法印から手ほどきを受けて煤孫大乗神楽として再興しました。その後、更木の大福院、江釣子の自性院らと共に芸の研鑽に励み保存をはかってきました。明治8年と33年には、自性院(江釣子神社)で大乗会が貴徳院など近隣の法印と合同で開かれ、自性院が舞の指導をしました。自性院の神楽は、「三月田山伏神楽」として天保14年生まれの高橋宮助が江釣子神社などの社掌(宮司)兼ねながら主宰していました。

和賀大乗神楽は、佐藤寅次郎以後・高橋多喜蔵・武田三蔵・三田市太郎・武田博・鈴木秋尾と続き、武田忠美から現在へとつながっています。昭和49年岩手県指定、53年には国の記録選定を受けています。その後、山伏神楽としては特異な存在から和賀の大乗神楽として他の4団体と共に県の再指定を受けました。「榊」を連綿と受け継ぎ、大乗神楽の牽引役として全体のレベルアップに貢献してきました。

元旦には、煤孫の古舘神社(旧貴徳院)に参拝奉納し、別当の武田家で舞初めをしています。3月には、煤孫慶昌寺本堂で定期公演を行っています。その他、北上市大乗神楽大会、北上みちのく芸能まつり、煤孫集落の秋祭りや各種イベントに出演しています。

 

岩手県指定無形民俗文化財「村崎野大乗神楽」

所在地:北上市村崎野

代表者:中野善一

沿革

村崎野大乗神楽は、村崎野に鎮座する天照御祖神社の付属神楽として活動しています。この地方に農業用水を引いた奥寺八左衛門に同行してきた山伏・佐々木惣三郎が加持祈祷して寛文6年(1666)に水の取り入れ口を見立て9年後に堰が開通し、元禄2年(1689)に神社を建立しました。そして周辺の山伏達と和賀山伏神楽を起こし加持祈祷を行ってきたと言われています。幕末にはその神楽も衰退しましたが、万法院で開かれた大乗会を契機に広まった神楽を取り入れ村崎野大乗神楽として今日に至っています。昭和25年まで神社の宮司・伊勢潔が榊を舞い奉納し、続いて飯豊の斎藤徳重が幕神楽を奉納していましたが、昭和29年に中断し権現舞のみの奉納になりました。

昭和59年、地域の気運が高まり保存会が結成され、中野善一が北笹間大乗神楽の小原長次ヱ門より榊を伝授、平成8年4月16日春祭りで奉納しました。その後も2人が榊を伝授し、多くの演目を復活しています。

神社の元旦祭に御神楽権現舞を奉納、3月の火防祭に地域を祈祷、4月16日春祭り奉納、北上大乗神楽大会、北上みちのく芸能まつり、9月5/6日の秋祭りに奉納、12月の村崎野・更木・二子地区大乗神楽発表会や各種イベントで旺盛な活動をしています。

 

岩手県指定無形民俗文化財「宿大乗神楽」

所在地:北上市二子町下宿

代表者:及川和生

沿革

宿大乗神楽は、明治30年に村崎野妙法院(天照御祖神社・通称伊勢神社)から二子八幡の妙泉院(二子八幡神社)に伝承され再興しました。明治34年に村崎野大乗神楽初代「和田永全法印」から二子下宿の「千田行全法印」に榊舞が相伝され、二子大乗神楽として発祥しました。高度成長期に一時中断しましたが、昭和52年に復活、しかし榊舞を舞う法印がしばらくいませんでした。平成13年岩手県の指定を受けて他の4団体と共に104年ぶりに大乗会を復活する文化庁のふるさと再興事業が計画されました。平成15年秋、村崎野大乗神楽「中野法善法印」を師匠に二子八幡神社拝殿で上宿和賀神楽と共に修行し数人が目出度く得度し法印号を授与しました。そして平成16年、和賀町煤孫で5団体の法印が中心となって11時間に及ぶ第4回大乗会を成功させました。

活動は、二子八幡神社元旦祭に奉納、3月の宿火防祭で門打ち、北上市大乗神楽大会、8月北上みちのく芸能まつり、9月に二子八幡神社秋祭りと二子いもの子まつり、12月は二子・村崎野・更木地区大乗神楽発表会や各種イベントに参加しています。

 

岩手県指定無形民俗文化財「上宿和賀神楽」

所在地:北上市二子町上宿

代表:齊籐貴幸

沿革

大正時代に上宿集落の小原和七が、絶えて久しかった和賀山伏神楽の再興を思い立ち、若者達を集め村崎野大乗神楽二代目庭元「館脇法全法印」の指導で稽古を始め、大正11年の火防祭に秋葉山大権現様の門打ちを行いました。

 和七は、法全法印の指導を受けて大正12年正月27日に「得度証」と「榊」「荒神」の切紙(免許皆伝)を受け、法印名「法覚」を授かり、上宿和賀神楽として再興しました。上宿和賀神楽は、秋葉山大権現を信仰する集落の万代講を拠り所にして活動しています。

 和賀氏の氏神白鳥神社の元旦祭・夏越祭に奉納。宿大乗神楽と共に3月中旬に宿の火防祭で門打ち。9月15日の二子八幡神社の祭礼に奉納。その他、7月の北上市大乗神楽大会、8月の北上みちのく芸能まつり、8月下旬の江釣子三日月田不動尊の祭礼、9月下旬日曜日の二子いもの子まつり、12月上旬の二子・更木・村崎野地区大乗神楽発表会など多彩な年間行事をこなしています。

 平成16年に行われた104年ぶりの大乗会を目指して法印(榊伝授者)となった若者達が主力となって舞の研鑽と後継者育成に力を注いでします。

 

出演団体の他に花巻市の笹間大乗神楽も幕神楽を行っています。

岩手県指定無形民俗文化財「笹間大乗神楽」

所在地:花巻市北笹間

代表:小原善昭

沿革

南笹間萬法院永岩法印が再興した大乗神楽を第一代と数え現在北笹間地域で伝承しています。明治時代に萬法院が修験から離れ事で神楽は、北笹間の照井賢治(3代)が継承し・4代照井源太(北笹間)、5代高橋丞太郎(北笹間)、6代伊藤徳之助(栃内)7代照井又五郎(北笹間)、8代小原営左ヱ門(北上市更木)、9代本館春治(北笹間)、10代小原長次ヱ門(北笹間)、11代斎藤啓志(北笹間)、12代根子清徳(北笹間)13代小原正義(北笹間)と伝承されてきました。平成13年に岩手県指定になり北上市の4団体と共に大乗神楽の発展に尽くしています。

笹間大乗神楽は、北笹間天満宮の奉納神楽として正月には地域の春祈祷を行い、4月25日の祭礼、9月15日笹間八幡宮例大祭、9月25日天満宮秋期例大祭に奉納しています。その他近隣の神社に依頼され祭礼で神楽舞を奉納しています。

 平成16年11月に嘉永2年万法院大乗会開催155年を記念する法会を地元で行い、北笹間から「笹間大乗神楽」と改名し、舞組を中心に地域住民で保存会を組織し伝承活動を支援しています。

 

 

大乗神楽の演目を理解する為に

「大乗神楽は本地垂迹説に基づいて舞う」

本地垂迹(ほんちすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えです。

「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。「垂迹」とは神仏が現れることを言います。

鎌倉時代になると、逆に仏が神の権化であると考える神本仏迹説も現れました。大乗神楽の本地垂迹は、和賀地方独自の解釈もあり各団体一様ではありません。

 

演目紹介

帝 童(ていどう)

帝童は、龍女で本地仏は師子音仏とされています。後生の考を願って舞うとされています。後生とは、来世のことで、幕掛け言事に「ようよう急ぎ行く程に熊野詣りの帝童に」とあり考を願って熊野に行く様子が伺えます。考とは、一般に儒教の徳目で親孝行と考えられます。更に「立ち巡れば科はなお勝る」「鏡見れば」「袂取れば」など女性の日常的な仕草を取り入れており、大乗神楽唯一の女舞いです。

 龍女は、仏教の守り神「竜神」で八才にして「文殊が竜宮で法華経を説くと龍女は瞬時に悟りに達し」たが、舎利佛は、女人は穢れているから成仏出来ないと説きました。しかし龍女は宝珠を釈迦に奉ったところ男子に変じて成仏したと言う説教で10世紀頃から普及した模様です。戦後は、女性蔑視の観点から改まっています。

法華経によると師子音仏は、三十日秘仏の九日仏「大通智勝仏」の16人の子供の一人で、東南方(八方ある)の仏になったと言われます。大通智勝仏は、釈迦に教えを説いた仏の一人です。

帝童の追っかけ

黒のひょっとこ面を付けた道化が帝童を追っかけます。胴と掛け合いながら女を出せと面白おかしく進めます。胴が「あねっこなら唐の天竺まで行ってしまった」と言うと追いかける言って踊り出し天竺での短歌を交えた面白いやり取りを語ります。

 

三番叟(さんばそう)真似三番叟

大乗神楽では、翁舞いとして位置づけられています。黒面で滑稽なしぐさや追っかけもあります。翁は、人々が末永く無事で長生きできる事を神歌にのって四方を踏み固め、邪悪を浄化させる舞いです。

 

榊(さかき)

大乗神楽最高の祈祷舞いで、法印の資格を有する者しか舞えません。

法印の資格を得るには、7日間神社や寺に籠もって呪法や舞いを修行します。その間、肉・魚は禁止、修行者以外の火を用いてはならないなど厳しい仕来りがあります。

榊の垂迹神は、軍陀利夜叉明王で本地仏は金剛界宝生如来です。軍陀利夜叉明王は、不動明王を中心とする五大明王の一人で人間界と仏界を隔てる天界にいる南方の守護神です。明王は火の世界に住み、炎の神力で祈願すると言われます。その他、東は降三世明王、西は大威徳明王、北は金剛夜叉明王です。

宝生如来は、密教の金剛界五仏(五大如来)の一仏で大日如来(中央)の南方に位置します。その他、東は阿閃如来、西は阿弥陀如来、北は不空成就仏です。

宝生如来は、字のごとくいろいろな宝を生み出す福徳の仏で、あらゆるものは平等であるという精神を説くとされています。

如来は温和に正法を説きますが、煩悩の虜になった救いがたい者は明王が真っ向から憤怒の形相で正法に導くとされています。

榊の舞いは、手次や踏み足の所作、九字(手印)など随所に修験の呪法が強く残る祈祷舞いです。

榊舞には、「初夜」と「後夜」があり、昼は「初夜」を舞い、夜は「後夜」を舞います。

言事が多少違いますが舞はほとんど同じです。

 

七つ釜(ななつがま)

神話の天地開闢にまつわる舞です。「古事記」と「日本書紀」の七神は、異なりますが、国土のあらゆるものを七神で作った物語を舞にしています。

第一の神は、天体を司り国土を作り・第二の神は、水体を司り草木を作り・第三の神は、軍を司り仏法を定め・第四の神は、和歌を司り情けを与え・第五の神は、五穀を司り人間を養い・第六の神は、風体を司り礼節を定め、第七の神は、夫婦を司り人間界(衆生)を作ったと解釈されます。

面を付けず七人が鳥兜・常衣・袴姿で扇と錫杖を持ちゆったりと舞います。

大乗神楽では、必ず一番目に舞います。

1, 国之常立神(くにのとこたちのかみ)天地開闢の最初に現れた神世七代の第一の神

2, 豊雲野神(とよぐものかみ)豊に富み足りた国をあらわす

3, 宇比地邇神(うひじにのかみ)須比智邇神(すひじのかみ)大地が泥や砂でやや形を成した状態

4, 角杙神(つぬぐいのかみ)活杙神(いくぐいのかみ)泥土がしだいに固まって生き物が生まれ、育まれて行く力が得られた。森羅万象万物がこの二柱神に力によって生まれた。

5, 意富斗能地神(おおとのぢのかみ)大斗乃弁神(おおとのべのかみ)大地が完全に固まった時の神

6, 淤母陀琉神(おもだるのかみ)阿夜詞志古泥神(あやかしこねのかみ)男神は大地の表面が出来上がった意味。女神は大地が完成した意味の美称。本地垂迹では天界の最高位の第六天になる。

7, 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)天神七代最後の神我が国最初の夫婦神。伊邪那岐神は天照大神の親だが皇祖神ではない。結婚の神。日本での神話では「人類の起源神」とされる。

 

七五三(しめきり)

天岩戸の前に張った注連縄を切る歳殺神・黄幡神・豹尾神の三神の舞いとされています。

この三神は、牛頭天王の八人の子供達で八方位の吉凶神で八将神です。

太歳神 (総光天) 木星(歳星:さいせい)の精といわれ、四季の万物の成長を見守る吉神。

大将軍 (魔王天王) 金星(太白星:たいはくせい)の精といわれ、金性のであることから、万物を殺伐する凶神であり、軍人の神とされる。

太陰神 (倶魔羅天王) 土星(填星てんせい)の精であり、太歳神の后である。

歳刑神 (得達神天王) 水星(辰星しんせい)の精。刑罰を司る凶神である。

歳破神 (良侍天王) 大陰神とは親戚で、同じく土星の精とされ、死亡と盗賊を司る凶神。

歳殺神 (侍神相天王) 金星(太白星たいはくせい)の精。大将軍の親戚で、殺伐を司る凶神。

黄幡神 (羅光星・宅神相天王) 月日の光をおおって「食」を起こすと言われる想像上の星。羅ごう星の精で、土を司る凶神。

豹尾神 (計斗星・蛇毒気神天王) 想像上の星、計都星(けいとせい)の精で、常に黄幡神の正反対に在位する。

方位神は、古代中国の民間信仰の九星占いから発生しています。

大乗神楽では歳殺神の本地仏は、千手観音菩薩。黄幡神は、胎蔵界大日如来。豹尾神は、金剛界大日如来としています。

千手観音菩薩は、名前の通り千本の手を持ち、どの様な衆生をも漏らさず救済する観音の慈悲と力の大きさを現しています。

 胎蔵界大日如来と金剛界大日如来は、密教の曼陀羅と言う多くの仏や菩薩を一定の方式で整然と描いた二つの図の中心にいます。大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に現しており胎蔵界は、体内の出産以前の姿で、金剛界は仏の煩悩を破壊する力を示していると言います。

この様に慈悲深い智慧のある仏達が、凶神の姿で天の岩戸の注連縄を切り落とすと言う設定の舞いです。一方天の岩戸の注連縄は、天照大神が現れたので再び岩屋に入らないように封印する為に張ったとも言われています。

 

荒  神(こうじん)

「荒神」は、字のごとく荒ぶる神の舞です。和賀大乗神楽の荒神は、憤怒の赤面で三つの目を持っています。三つの目は、飢渇神・貪欲神・障礙神でそれぞれに災いをもたらす神ですが、日本古来より神には「荒魂」と「和魂」の2つの側面があると解釈され荒ぶる神への信心が平和や豊かさをもたらすと考えられてきました。

荒神の舞では、四本の幣束を北東(鬼門)と東西(病門)、更に南東(風門)と北西(乾天門)に立て祈祷し四方より大龍(災い)の侵入を防ぎ、幸いと豊かさを招きます。

荒神は、カマドの神様として一般的ですが、謂われは定かではありません。火は煮炊きや暖をとる有益さと火事のように財産を焼き尽くす恐ろしさの二面がある事と関係しているのかも知れません。また火を自在に操る「不動明王」と言う説もあります。

三宝荒神については、信仰の違いによって様々な解釈があり、垂迹神と本地仏も違うようです。ちなみに日蓮は、「飢渇神・貪欲神・障礙神は、三毒即ち三徳となる」としています。また弘法大師の説と伝えられる「三は仏教の三昧」で三宝荒神は文殊菩薩とされ「心いらだつときは荒神となり、心静かなときは如来となる」としています。

民間伝承では、古事記の「こは諸人のもち拝く竈の神なり」とあり「大年神」「奥津日子神」「奥津比売神」であるとして三宝荒神は、「大年神」だとしています。

一方仏教的解釈によって「仏・法・僧」の三宝と言われています。

和賀大乗神楽では、荒神は「三面大国」が垂迹神で本地仏は「普賢菩薩」とされています。三面大国は、「三面大黒天」と考えられますが、「大黒天」「毘沙門天」「弁財天」の三神で伝教大師が天台宗の発展に延暦寺に祀ったのが始めで全国に広まったものです。

「大国」は「大黒」ですが、元々破壊と豊穣の神でしたが豊穣が残り食物と財福の神となったようで、出雲神話の大国主と習合して古くから信仰されてきたようです。

いずれ「荒神」への信仰は、「災い転じて福となす」と言うような庶民が身近に感じる思いがあるようです。

 

鬼門

本来大乗会でしか舞わない祈祷舞で凡そ90分に及び104年ぶりの平成16年の大乗会で公開されました。今回は東京での特別公開として30分ほどに短縮して滅多に見られない秘舞をご覧頂きます。

 大乗神楽では、通常の舞を平神楽と呼び、「鬼門」と「天王」は「大乗会」の時にしか舞わない特殊な祈祷舞です。

鬼門とは、忌み嫌われる方角・北東(丑寅)とその反対の裏鬼門は南西(未申)を一般に言います。陰陽道では鬼が出入りする方角だとされています。中国の古い地理書「山海経」(中国の山岳信仰がわかる)の物語が元になっており、北西(乾)を「天門」、南西(坤)を「人門」、南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」としたことによります。鬼門は忌み嫌われるばかりでなく逆に神々が通り、太陽が生まれる方角だから清浄を保たなければならないとも言われています。

鬼門の舞は、寅舞とも呼ばれ「表寅」と「後寅」が、鬼門・裏鬼門の注連縄で仕切られた鍔釜の前で鉾を持って舞い、注連縄を切り落とします。

明治8年の大乗会記録によると垂迹神は、「陰陽の二神」で本地仏は、「梵天と帝釈」となっています。梵天は、古代インドの神で仏教の二大守護神とされており、帝釈天と対で祀られています。「陰陽の二神」は定かではありませんが役小角の従者の夫婦鬼「前鬼・後鬼」と言う説もあります。

装束は、鈴懸衣に結袈裟で裁着袴に手甲脚絆を付け、八目草鞋を履いて法印が舞います。

 

権現舞(伏せ獅子)

権現とは、仏が衆生済度(生あるものの悩みを救い悟らせる)のために、仮の姿(獅子頭)で現れる事です。権現様は、神社の祭神や産土神を自らに降ろして地域の安泰・五穀豊穣・人々の無病息災を祈祷します。神仏の供物(米・酒・水)を権現様が祈祷し、参拝者の身体を咬み「身固め」を行います。

伏せ獅子は、通常の権現舞に扇や剣を持った舞い手が加わり、獅子に扇や剣を呑ませます。獅子は鳴き声をあげながら獅子の体内で清め吐き出します。

伏獅子の解釈は、団体によって違いますが、倶利伽藍龍王を表す場合もあります。不動明王の使者「龍王」が剣に巻き付き勝利した経文解釈によります。大乗神楽の獅子頭には、耳がなく、幕の模様は鱗で「龍」や「蛇」であるとされています。